LIRY vol.17  Special Issue “Scent” #5 Scent Psychology 

九州大学高等研究院及び大学院芸術工学研究院教授 妹尾武治

 

THEME  [ Scent]

 

匂いの不思議さ

 

人間は、1兆個の匂いが、 嗅ぎ分けられる!?

 

 感じ取れる匂いの幅はどれくらいだろうか?日々生活する中で、匂いには何種類くらいの存在があると自覚しているだろうか?例えば、色覚の色だったら、白黒赤黄緑青紫のようにその知覚される内容をいくつかのカテゴリーに区分することが出来る。匂いはどうだろう?食べ物のいい匂い、腐ったものの匂い、香水のようないい匂い、汗臭い匂い、こんな風にいくつかカテゴリーのようなものが浮かぶ。しかし、それぞれに特別な名前がないのだ。腐ったものには腐乱臭のようなそれそのものの名前があるが、例えば、食べ物のいい匂いには、良食臭、のような表現はない。匂いをカテゴライズして、普段使いする文化が日本には無いようだ。日本に限らず、それぞれの匂いに特別な名前を与えて、普段使いする文化はとても少ないことがわかっている。

 

 音と比較しても、音には「高音-低音」や「音量」「音質」という様々な概念によって、その存在が区分されて理解されている。「高臭-低臭」とか「臭量」「臭質」という表現は、少なくとも日常的には用いられないし、特殊な研究場面でない限り、そう言った表現は使われない。音と聴覚に比較しても、やはり、匂いと嗅覚は、漠として、曖昧なままに扱われて、捉えられていることがわかるだろう。これは一体何故だろう?「生活に必要がないから?」という仮説はどうだろうか。これはすぐに否定出来る。我々は、匂いをもとに食べられるか、危険がないかを判断する。匂いは、これまでの進化の過程で繰り返し、生存のために使われてきた情報、知覚情報である。だから「生活・生存に必要がないから匂いにはカテゴリ名が無い」というのは否定出来る。

 

 それでは、何故匂いの情報は、漠然としており、名前も無く、扱いとしていい加減なのだろうか?実は、この原因は、嗅覚の特性を反映したものだと言えそうだ。2014年にサイエンス誌上でロックフェラー大学の研究チームが報告した論文では、人間は1兆個の匂いを嗅ぎ分けることが出来る、と報告されている。2014年のこの実験論文が出るまでは、そもそも人間の嗅覚の能力で、どの程度の数の匂いが分別出来るのか?については、おおよそ1万種類くらいだろうという俗説がある程度で、はっきりしたことがわかっていなかった。視覚では、390nm〜700nmの波長を色として見ることができ、そのレンジに230万から750万個の異なる色を知覚することが出来るとされている(研究間で、数値には開きがある)。聴覚では、20〜20,000Hzの周波数の空気の揺れを音として知覚することが出来る。そしてそのレンジにおいて34万個の異なる音程を知覚できると言われている。視覚では750万個の違いが弁別でき、聴覚では34万個の違い弁別できる。

 

それでは、匂いはどうだろう?答えは、先に示した通り、1兆個の匂いをそれぞれに異なるものとして弁別することが出来たのである。視覚と聴覚に比べて、圧倒的な数の識別、弁別が可能なのである。色覚は網膜の三種類の視細胞の反応強度のバランスによって、得られている。元を正せば、たった三種類のフィルタを使っているだけなのだ。聴覚でも、フィルタは24個程度しかないことが知られている。一方で、嗅覚には、350個異なるフィルタが用意されていると言われている。この350個のフィルタの反応の違いとフィルタ間のバランスの違いを脳で解析することで、1兆個もの異なる匂いを知覚することが可能になっているのである。

Art Work “Scent” 
様々なバリエーションを少数で生産するスタイルのため、コレクターが多いことで知られてる。<ダイアンフレイス>のワンピース。なかでも人気だったのは、80年代のデザインもの。  ワンピース ¥34000 (ヴィンテージ |エバーグレイ) 50’sスウィムキャップ 非売品 (ヴィンテージ|エースインザホール) 鼻栓 ¥600 (ミズノ|ミズノお客様相談センター) エバーグレイ ☎092-521-0796 エースインザホール ☎092-724-3958 ミズノお客様相談センター ☎0120-320-799

 

 嗅覚に、カテゴリー名がない理由は、まさにこの感覚としての豊饒さゆえであると考えられる。あまりにも幅が広すぎて、それを下位のカテゴリーに区分することが出来ないのである。豊饒すぎて、言語化出来ないのだ。1兆種類を嗅ぎ分けるというのは、人類の平均値で見たときの話であり、嗅覚はフィルタ数が多いが故に、個人差もとんでもなく大きい。すごい人は、1兆の1兆倍の数の匂いが嗅ぎ分けられる可能性があると論文では報告されている。匂い鑑定士、ワインなどのソムリエ、チーズの鑑定人などの嗅覚は、おそらくそう言った物凄く高い感度を持っているだろうと想像出来る。匂いのこの圧倒的な豊饒さは本当にすごいと感じる。

 

反対に、豊饒が故に、研究が難しいということもよく知られている。私は心理学の中でも、特に「知覚」を研究テーマに据えている、知覚心理学者であるが、知覚心理学において「嗅覚」は出来れば手をつけたくない、一番難しい分野として認知されている。例えば、同じ匂いを、別の場所、別の時間に再現するということ一つ取っても、匂いだと非常に難しいのである。匂い刺激の統制、管理監督は至難の技であり、研究対象として敬遠されがちになるのだ。これもまさに豊饒さ故の問題であると考えられる

 

匂いで、思い出す! プルースト効果

 

 もう一つ、匂いに関して面白い話は、「プルースト効果」と呼ばれる心理現象だ。特定の匂いを嗅ぐことで、昔のある場面が急に思い出されて、非常に懐かしい気持ちになったことはないだろうか?昔の彼氏、彼女が使っていた香水の匂いを嗅いで、その人との時間を一気にフラッシュバックのように思い出した、という経験がある人も多いはずだ。私自身、ある夏の日にとある八百屋に入った時、蚊取り線香の香りと、木造家屋のすえた匂いを嗅いだ瞬間に、祖父母の家で過ごした小学生時代の夏休みの思い出が、フラッシュバックしたことがある。プルースト効果は、フランスの文豪マルセル・プルーストの名にちなんでつけられた名前である。彼の代表的な長編小説『失われた時を求めて』の作中で、紅茶に浸した一片のマドレーヌの匂いから不意に幼少時代の鮮やかな記憶が蘇る。これにちなんで名付けられた心理効果である。諸説あるが、匂いを感じる鼻の深部は、脳の中央の大脳辺縁系と呼ばれる位置ととても近い。大脳辺縁系は、感情や記憶の制御・保管に関係している脳部位であり、匂いの刺激は地理的にここにダイレクトに働きかけるため、時に、匂いが強い情動や記憶の想起を引き起こすのである。

 

 これだけでなく、匂いには面白い心理効果がまだまだたくさんある。その一方で、先に書いたように研究の難しさから、あまり多くのことがわかっていない。知覚における21世紀のフロンティアとして、今後より多くのことが明らかにされるだろう。是非とも、今後の心理学者の頑張りに期待をしていただきたい。

 


senoo-01 妹尾武治・せのおたけはる

九州大学高等研究院及び大学院芸術工学研究院教授。オーストラリア、ウーロンゴン大学客員研究員。東京大学大学院人文社会系研究科(心理学研究室)修了。心理学博士。専門は知覚心理学だが、これまで心理学全般について研究及び授業を行ってきた。現在、自分が乗っている電車が止まっているのにもかかわらず、反対方向の電車が動き出すと自分も動いてるように感じる現象(ベクション)を主な研究テーマとしている。電通九州等との共同研究を多数手がける。筋金入りのプロレスマニア。著者に『脳がシビれる心理学』(実業之日本社)、『おどろきの心理学』(光文社新書)、『脳は、なぜあなたをだますのか:知覚心理学入門』(ちくま新書)がある。

 


 

Photo / Daisuke Shouda (KRK)
Styling / Keisuke Ueno (REFRAIN226)
Hair & MAKE / Tomoko Kido (CO5)
Model /  Izumi Ano (elegant promotion)

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