LIRY_13_#6-01


LIRY VOL.13 Pictures

言葉のいらない写真

 

 

#6 What’s Pictures ?

 

写真=目で見る。という行動パターンは、どういった方法論で人の目が見識をしているのか?また、そこに感動が生まれる瞬間に、ワタシ達がどういった状況、環境でそうなるのか?今回、九州大学高等研究院及び大学院芸術工学研究准教授の心理学博士“妹尾武治”先生に訊いてみた。そして、「写真」と改めて向き合ったLIRYのまとめ。

 

 

100万画素しかないヒトの目
 

 

 

 私は大学の4年間と、その後の大学院の5年間で、知覚心理学という分野を学んできました。心理学の中でも、知覚、その中でも視覚つまり、ものが見える目と脳の仕組みについてずっと学んで来たのです。心理学というと、もっとポップな印象があったり、星座占いや血液型占いのようなものを想像される人も多いのですが、実際の日本の大学では、心理学は学問として成立している堅い分野です。目の細胞、脳の細胞がどのように組合わさることで、ものが見えているのか?という疑問に対して、既にわかっている膨大な知識について、勉強をして来ました。

 

ものが見えることの基礎・基盤を知ると、人間が見ているものの素晴らしさと、凄さについて否応無く知ることになります。この人間の視覚の素晴らしさこそ、素晴らしい写真の謎、なぜ写真は物語るのか?という謎と密接に関係していると私は思います。 皆さんは、人間の目、人間が見ている映像は一体何万画素のデジカメに相当していると思いますか?現在のデジカメは1000万画素などが普通の時代ですし、iPhoneのカメラも余裕でその程度かそれ以上の画素を誇ります。目で見ているものの、活き活きとしたありさまは、写真に撮るとがっかりすることが多いですよね。そう考えると、目は、1000万画素のデジカメ以上の精緻さで世界を捉えているに違いない!と思うのが自然です。

 

ですが、人間の目から脳への情報を送る神経、つまり視神経の本数はわずかに100万本なのです。片目あたり、100万本なので、両目で200万本の視神経で情報が脳に送られます。つまり、人間の目の情報は、目から脳に送られるタイミングで、一度上限として、片目あたり100万画素の情報に圧縮されているのです。脳に送られてから、その100万画素の情報は、もっと莫大な数を誇る脳細胞の働きで、様々に色付けされます。ですが、人間の神経の制約として、一端100万画素に情報圧縮がなされている事実は否定出来ません。 100万画素のデジカメとは、どのようなものか?皆さんはわかりますか?私が大学生だった2000年代の初頭のデジカメ黎明期でも、その画素は200万以上あったのが普通でした。ガラケーの写メでも、最低で300万画素程度のカメラが当時から既に搭載されていました。つまり、100万画素の映像は、酷くぼけぼけで全くもって鮮明とは言えない画像なのです。それでは、なぜ人間の目は、100万画素に圧縮された、映像を見ているはずにも関わらず、1000万画素の写真よりも、現物、つまり「目で実際に今見ているもの」をより美しく感じるのでしょうか?

 

そこには色々な要因があります。例えば、人間の目は確かに100万画素しかなくても、中心視野に偏って視神経が配分されており、中心部分の画素数は、1000万画素には遠く及ばないものの、それなりに保たれているという反論が可能です。他にも、人間の目は静止画のカメラではなく、動画であるため、画像を時間的に溜め込むことで、より精緻な静止画を見ているという反論も可能です。ですが、人間の目の凄さは上記の小手先の反論では全ては説明が出来ません。人間の目の凄さは人間の脳の凄さにあります。脳は、100万画素の圧縮映像を脳の中で様々に色づけするのです。過去に見た膨大な映像のデータベースと比較して、様々な意味付けが行われます。過去の映像との比較や、似ている場面で感じた感情や、嗅いだ匂い、食べた味など、さまざまな情報が映像と結びつき脳内で立ち上がります。これらの情報の総体が、「今見ているもの」として我々に提供されます。この情報の拡張によって、我々は100万画素に満たない情報に、圧倒的なリアリティ、感動をおぼえるのです。ある意味で、我々は目と脳にだまされているのです。実際に見ている映像以上の意味、情報が脳の中で無意識に付与されている。それ故に、目で見ているものこそが最も素晴らしく感じるのです。物語る写真、「凄い写真」が我々の脳にもたらすのはまさにこれと同じなのではないかと私は思います。言葉にし得ないが、その写真を見ることで、無意識に、無自覚に様々なこと、色や匂い、触感や味などが思い出されることで、その写真を見たときに、特有で独特な不思議な心の状態が得られる。そんな写真が、素晴らしい写真として、時代を越えて引き継がれて行くのだと思います。  

言語化出来ない『感動』

 

 

1つの映像を見た時に、様々なことが思い出され、独特の「感覚の質感」とも言えるものを我々は感じます。この感覚の質感、「わたしという個人」に特別に生じる感覚の特異性のことを、心理学の専門用語で「クオリア」と呼びます。眼前に赤一色の画面を提示されたとします。それを見た人は、その人特有の「赤の独特な赤さ」を感じます。この誰とも完全には共有出来ない、自分自身の感覚の質感が、クオリアです。クオリアは長年、科学の俎上にのらないテーマとして考えられてきました。つまり、説明が出来ない、言葉に出来ないものなのです。その写真がなぜ素晴らしいのか?について、写真家の人は必ずしも、言語で明快に説明することが出来ません。これは、クオリアが言語に完全には変換出来ないために起る現象です。クオリアを言語に出来ないのは、誰しもなのです。写真家であれ、科学者であれ、自分自身の特別な感覚を他人に100%を損なわずに伝えることは出来ません。小説家が非常に長い文章でもって、主人公の感覚を伝えようとしても、完全にはその感情が再現出来ないことからも、クオリアという自分と他者との圧倒的で、超克不可能な断然が愕然として存在していることが明らかであると思います。
 

私は、心理学者としてこのクオリアの謎に挑んでいます。その営みは、写真家が素晴らしい、物語る写真を撮ろうとする営みと似ているのかもしれません。アートは、直感を用いてこの謎に迫りますが、科学は論理的に迫ろうと四苦八苦しています。私は、両者はそれほど乖離した存在では無いと思っています。

 

そんな思いから、今回この原稿を寄稿させてもらっています。この原稿を読んで、クオリアの不思議さ、目の不思議さと、物語る写真、凄い写真という不思議さが同じ土俵で語りうるのだということを少しでも感じて頂けたら幸甚です。  物語る写真と、100万画素の目、

 

そしてクオリア。これらは地続きで、お互いに密接に関係しているのです。人間の脳と心は本当に不思議であり、面白いものです。

文・妹尾武治

 


senoo-01 妹尾武治・せのおたけはる

九州大学高等研究院及び大学院芸術工学研究院教授。オーストラリア、ウーロンゴン大学客員研究員。東京大学大学院人文社会系研究科(心理学研究室)修了。心理学博士。専門は知覚心理学だが、これまで心理学全般について研究及び授業を行ってきた。現在、自分が乗っている電車が止まっているのにもかかわらず、反対方向の電車が動き出すと自分も動いてるように感じる現象(ベクション)を主な研究テーマとしている。電通九州等との共同研究を多数手がける。筋金入りのプロレスマニア。著者に『脳がシビれる心理学』(実業之日本社)、『おどろきの心理学』(光文社新書)、『脳は、なぜあなたをだますのか:知覚心理学入門』(ちくま新書)がある。

 

*Conclusion of Pictures by LIRY*

 

『写真』

 

 写真の中に収まったヴィジュアルは、時にダイナミックなスケールでワタシ達を興奮させたり、時に匂いも音もない、ましてや動きもないものが、囁かな物語を想像させてくれる。それは、ワタシ達が視覚というモノに頼り、視覚に左右された人生を送っているかのように思います。たった1枚の写真がヒトの心を揺さぶり、何かしらのアティテュードを感じ心を動かしていく。その心が動くコトを、ワタシ達は“感動”と呼び、そこに刹那的な情念を持ったりします。

【言葉のいらない写真】とは、決して言葉が必要ないという見解、声明ではありません。どこまでワタシ達クリエイターが思考を巡らしヴィジュアライズ出来るのか?というテーマでもあり、逆に言葉の重要性と必然性を考えるコトもテーマでもありました。

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アナログな時代、ヒトとの接点で生まれる対話や、手にするモノなどで増えていく知識、そういった中からワタシ達は言葉を放出しコミュニケーションを得てきました。しかし、時代は常に動いています。過去想像もしなかったような世界は、いつだって目の前に突如として現れています。言葉も価値、意味合いが変化していってる中で、「思い」「伝える」「感動」こういったワードが、明らかに時間をかけずにスマートにはかどろうとする社会になっていってる気がします。しかし、ワタシは創造をしていく、クリエイションを続けていく中で、まだまだ『写真』は大切な武器のようなモノと思っています。言わば、まだまだ専売特許だという古典的なマインドでいます。

今回の特集には、テーマが指す通り、ほぼほぼ言葉はなく、画、ヴィジュアルだけを純粋に見てもらいたく非常にミニマムでタイトに構成しています。可能な限り、制作者の意図を汲んでもらえれば幸いですが、異見が生まれても構わないとも身勝手ながら思っています。ワタシは、写真という表現がファッションと同じで、着ている服で自分を現すように、写真には沢山の「思い」「伝える」「感動」といった、とても感情的なアティテュードが詰まっているモノとして位置づけています。スキャン-10

現代のような時代だからこそなのか、近頃は写真展などに行く若者が増えたと聞きます。それは、もしかしたらSNSやインターネットの中で、日々垂れ流しのようなインスタントな写真や画像に不感症になっていく中で、カメラや写真というモノに触れなかった世代が、自然と手が伸びるというコトは、もしかたらヒトの感情として当然なのかもしれません。やはり写真は感情であり、永遠に形を変えながらも「撮る」という行為は続いていくんだと思います。そして、「撮る」という行為に、『言葉がいらない』のかもしれない。
 

(文・編集長 上野圭助)

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